プロフィール

略歴


昭和43年11月、東京都北区で出生。埼玉県草加市、佐賀県鹿島市で過ごし、高校卒業後に上京。東洋大学法学部中退。
財団法人全日本ろうあ連盟の職員を経験。社団法人東京都聴覚障害者連盟理事、東京都手話通訳派遣協会(現・東京手話通訳等派遣センター)運営委員・事務局長などを歴任。
平成20年7月に神奈川県川崎市宮前区に転居。NPO川崎市ろう者協会の副理事長、神奈川県聴覚障害者連盟の副理事長などを務める。
平成23年7月に聴覚障害女性が交通事故に巻き込まれた際に、本人の度重なる要請にも関わらず神奈川県警中原警察署が手話通訳の派遣を行わなかった問題では、その折衝の中心を担った。
現在は、立憲民主党川崎市政担当政策委員(宮前区)。宮前区聴力障害者協会 理事。

「ふじなが忠」ストーリー
1968(昭和43年)幼少時
1968年(昭和43年)11月、東京都北区で出生。小学5年生まで埼玉県草加市で育ちました。  当時、補聴器は不要だったが、「テレビを視聴するときの音が大きい」と周囲から言われ、 難聴の傾向の指摘があり、ときどき耳鼻科に通院していました。
1908(昭和55年)中学生のとき、はじめて補聴器を付ける
小学6年になるときに、佐賀県鹿島市に転居。その頃から少しずつ聴力が低下し、中学のときに補聴器を購入、はじめて装着しました。  「前世で中途半端にしか人の言うことを聞かなかったから、難聴になった」 「身内に障害者がいることになると困る。みっともないから外では補聴器を外しなさい。」等、いろいろな反応がありました。 実際、同級生で補聴器を付けている人はおらず「自分は生まれてこない方が良かったのではないか」と考え、高校卒業までは、できるだけ補聴器を付けない生活をしていました。
1992(平成4年)手話との出会い
20代、手話サークルとの出会いが、人生を変えました。 はじめて出向いた手話サークルでは、同世代の若者たちが補聴器をしていました。 聴こえない仲間たちの素晴らしい笑顔。まだ手話できちんとお話しできませんでしたが、 「聞こえなくても楽しく人生を歩めるんだ!」と思ったことは、今でも忘れられません。
1995(平成7年)阪神淡路大震災のときの聴覚障害者支援活動のなかで
神戸市内の各避難所等を自転車で廻って被災した聴覚障害者の支援活動に参加しました。避難所に居ても、ろうあ者には情報が入りません。これから弁当の配布があるという放送が聞こえずに、弁当配布の列にいつも出遅れてしまっていた女性もいました。 ふだんはなんとか平穏に生活していても、いざというときには、障害者が置き去りにされてしまういろいろな現実を目の当たりにして、神戸の街を仲間と一緒に自転車でまわりながら、とても悔しかったことを今でも覚えています。
2011(平成23年)神奈川県警との折衝の中で、声をあげることの大切さを学ぶ
今まで聴覚障害者のさまざまな運動に参加してまいりましたが、一番印象深いのは、2011年7月に中原区にお住まいの聴覚障害の女性が交通事故に巻き込まれた際に、本人の度重なる要請にもかかわらず神奈川県警が手話通訳の派遣を行なわなかった問題です。 当時、NPO川崎市ろう者協会の副理事長だった私は、神奈川県警との折衝の先頭に立ちました。女性の怒りを代弁し、折衝にあたっていく中で、神奈川県警も不十分な点はありながらも誠実に対応してくださり、今後の改善への努力を確認することができました。 この問題は、神奈川新聞が2011年8月13日付にて大きく報道。NHKも後日「ろうを生きる 難聴を生きる」にて全国放映し、社会的に問題を提起することができました。 「動けば変わる」ことを実感した出来事でもありました。
2018(平成30年)「当事者の声を市政に!」と決意。
2018年12月に今まで勤務してきた情報通信業の企業を退社。 約30年間のサラリーマン生活に別れを告げ、退路を断ち、本気でこれからの川崎市をより良くしていこうと決意しました。 聴覚に障害があるからこそ、見えてくるものがあります。 誰もが安心して暮らし続けられる川崎市の実現、川崎市のバリアフリー実現に向けて、皆さんとともに歩みます!
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